大航海時代・香辛料への欲望が地球球体説を証明してしまった
大航海時代はなぜ始まったのか? 香辛料獲得と、その手段として行なわれた布教活動について着目しながら大航海時代の中世ヨーロッパについてお伝えしています。
特に海外進出の先駆けとなったポルトガルとスペインについての香辛料をめぐる動き違いについてのパートにご注目です。
大航海時代が幕開けした背景・大航海時代にヨーロッパ人はなぜ海外進出をしたのか?
ヨーロッパ人の海外進出の目的・理由・きっかけは金より価値の高い東南アジアの香辛料
大航海時代は1400年代からマルコポーロ、マゼラン、バスコダガマ、コロンブスと言ったヨーロッパ人が次々にアジア地域へ海外進出し、その先を植民地化していったと認識している人が多いと思います。
なぜ大航海時代にヨーロッパ人は海外進出をしたのか?その根底には香辛料があったのです。
1000年代のヨーロッパ(特に北イタリア)はドイツの銀などをイスラム圏へ輸出し、イスラム圏からはインドや東南アジア諸国から送られてくる胡椒・ナツメグ・シナモンクローブなどの香辛料を輸入して取引の利益を上げていました。
当時のイスラム一帯はインド南部の胡椒を支配し、さらにマレー半島のマラッカをイスラム化して拠点とし、東南アジアと東アジア一帯の交易で巨額な利益を得ていた存在です。
そのイスラム支配下のマラッカ王は香辛料による莫大な利益を前に、「自分はイタリアの首に短剣を差しているようなものだ」と言ったほどだったとか。
* 深緑:ティムール朝時代の支配地 緑:同王朝時代の一次的支配地
ちょうどこの頃イスラム圏の勢力が地中海を占領し始めて一帯を制圧するほどになり、ヨーロッパに入ってくる香辛料が激減、価格も高騰してしまいます。
香辛料が金より価値が高かったと言われるのはこうした点にもあります。
このような理由やきっかけから、ヨーロッパではイスラム圏を介さずにインドや東南アジア諸国から香辛料を入手できる方法を探らざるを得ませんでした。
大航海時代にヨーロッパ人が海外進出をした目的は、アジアとの貿易で香辛料を容易に手に入れる環境を手にするためだったのです。
それなしにはもう成り立たない・大航海時代のヨーロッパ人にとっての香辛料の魅力や使用方法
大航海時代はルネサンスによってようやく羅針盤が生まれ造船技術が発達し始めた頃ですので、ヨーロッパから船に乗ってアジアに出かけることは多大なリスクです。
よって「わざわざ船で危険を冒してまで香辛料を手に入れたかった」と言われてもまだ信じがたいものがあります。
しかし当時のヨーロッパ人は一度アジアの香辛料の魅力を知ってしまって「それなしにはもう成り立たない」という実感を持ってしまったのです。
しかも大航海時代以前のヨーロッパではローズマリーやタイムなど日常的に香草が料理に活用されていましたので、胡椒などをはじめとした香辛料を受け入れる習慣や素地は整っていたのでしょう。
大航海時代の前後、匂いを放つ香料には以下のような使用方法がありました。
- 儀式上のインセンス(香を焚くなど)
- 皮膚に塗布するコスメティック(エキスをスキンケアに活用するなど)
- 薬用・食料保存・味覚向上
@とAは外から、Bは口腔内から鼻に抜けて香りを感じるルートを辿り味覚・嗅覚・視覚・聴覚(噛み応えなど)・触覚(舌触りなど)という五感全てをもって人間の欲求を満たし、生活の豊かさに寄与します。
舌で辛味・ピリッとした刺激などを感じ、そして口腔内から鼻腔にかけて香辛料の香り成分が通り抜け、食欲が刺激されて食事の満足感が得られ得るという香辛料の魅力は、当時のヨーロッパ人の食事で何にも代えがたい魅力に思えてしまうのです。
私たちも胡椒が振りかけられた肉に慣れていますが、胡椒が無ければ肉の臭みが気になったり物足りなく感じたりしてしまうはずです。大航海時代のヨーロッパ人も同じように感じてしまったのではないでしょうか。
冷蔵庫などない14〜15世紀のヨーロッパでは、肉のほかサケやマスやタラといった魚介を時期によって保存する手段として塩やオリーブオイル漬けする習慣がありました。
ヨーロッパで香辛料が臭みを消したり劣化を防ぐ防腐剤としての活用されるようになり、保存上でも何にも代えがたい便利なアイテムとなっていたのです。
香辛料の魅力にノックアウトされてしまったというのが大航海時代の背景にあり、後述のとおり香辛料の争奪戦で経済的に得た物も大きければ国が傾く要因ともなりましたので、「傾国の美女ならぬ傾国の香辛料」と言われるのも納得が行きます。
そしてさらにこの大航海時代の背景として香辛料だけでなく宗教布教が表裏一体の関係を成して登場するのです。
オスマン帝国への対抗策として編成された十字軍
大航海時代の背景として香辛料の獲得と宗教布教が表裏一体の関係を成して登場します。
イスラム圏の勢力がヨーロッパを圧制するほどになっていた当時、東ローマ帝国はローマ教皇ウルバヌス二世に支援を求めて十字軍が結成されるに至りました。
1096年多くのヨーロッパ人が聖戦という大義で十字軍に参戦、晴れて聖地エルサレムを奪還、エルサレム王国・キリスト教国家・要塞・教会などを建設するようになりました。
7回にわたる長期的なヨーロッパ対イスラム圏の抗争の末、もともと寄せ集めの兵だった十字軍の士気はあえなく時間の経過とともに低下していったようです。
このあと1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしたことにより同国のヨーロッパ圏における勢力拡張が決定的になり、オスマン帝国に対抗できる富を手に入れるべく海外進出する必要がありました。
一方で十字軍遠征はヨーロッパとイスラム圏の国際交流を促し、それまで以上にヨーロッパ人はインドやアジアの香辛料を求めるようになり、大航海時代へとつながって行ったのです。
大航海時代の全貌
1400年代ヨーロッパ諸国の動きとして活発化していった海外進出は、さきがけの存在としてポルトガル・スペイン、そして後続としてイギリス・オランダといった絶対主義国が続きます。
この4国について香辛料獲得と布教の2つの側面を追うことで大航海時代の動きを追って行きたいと思います。
なぜ大航海時代にポルトガル・スペインはアジア進出したのか?違いは?
- ポルトガル:制海権(海上を経済・軍事的に支配する権力)
- スペイン:植民地化(アジアに移り住んでスペイン政府が現地人を支配)
ポルトガルとスペインの条約:1494年トルデリシャス条約
イベリア半島の新興国だったポルトガルとスペインはイスラム圏に対抗する歴史と共にある国で、地理的な問題もあって当時の地中海貿易の旨味を享受できずにいました。
ポルトガルとスペインは、地中海貿易で力を振るえないことから海外へ進出して香辛料を獲得することを目論み、その獲得手段として精神的従属を容易にする布教という手段を活用するのです。
それではポルトガルとスペインの大航海時代の動きを詳しく見ていきたいと思います。
バスコダガマ
前述しましたように、ポルトガルは地中海貿易でイタリアに勝ち目がないとし、陸での勢力拡大は無理だと考えていました。
当時のヨーロッパでは香辛料に異常なほどの需要があり、ポルトガルもインド南部(胡椒)・セイロン(シナモン)・モルッカ(クローブやナツメグ)に生息する香辛料を独占支配を目指して海を渡ろうとします。
さてポルトガルのアジア進出のプロセスで特筆すべきはバスコダガマのカリカット到着でしょう。
- 1415年 イスラムの拠点となっていた北アフリカのセウタを占領
- 1488年 ディアス 喜望峰発見
- 1498年 バスコダガマ インドカリカット到着
- 1510年 アルブルケ インドのゴアを占領
- 1511年 アルブルケ マラッカ占領、同年モルッカテルティーナ島に至り同国王と親交を深めて現地の足がかりを築く
*
その理由は従来までベネチア‐イスラム‐インドを結ぶ陸のスパイスロードが香辛料貿易で莫大な利益を得ていたものの、コロンブスのインド航路発見が陸のスパイスロードの経済圏を事実上崩壊させているという点にあります。
そのあとインドのゴアを手中にしたポルトガルは、胡椒とシナモンの獲得に成功したのち、モルッカ島のテルティーナで島の王の信任を得てその地の支配を現実にし、安価に香辛料を入手する方法を構築します。
↓16世紀オーメンによる東南アジア地図・大航海時代にとっての最重要地域だった香辛料諸島マラッカの文字は特別大きい
出典:山田憲太郎 香談 東と西
ポルトガルはアジア進出を確実なものにするためにアフリカからインド・東南アジアにかけて重要な拠点に要塞や駐在所を置き、拠点で海上を結びポルトガルの港町リスボンと直結させ、海と陸のいずれにも軍事力を確保できるようにしました。
しかしながらヨーロッパの弱小国だったポルトガルは各拠点にマンパワーを配置できるほど軍事力に余裕があるわけではない(当時約100万の人口)ので、軍事力不足を宗教による精神的従属という形でカバーしようとしたわけです。
土着民たちをキリスト教に改宗させることができれば、ポルトガルは精神的従属を得ることができアドバンテージを得て香辛料が手に入りやすくなると考えました。
このためポルトガル人たちは東洋に行く理由として俄然「香辛料と霊魂(布教)のため」と答えていたと言います。
布教はポルトガル国王の崇高な精神的使命とでも言いましょうか。ポルトガルの香辛料をめぐるインド進出は第二の十字軍派遣という異名もあるほどなのです。
※当初の海外進出の計画はポルトガル国王の弟エンリケ王
香辛料を手に入れるために布教活動をしたのかと言えばそうとも言えるし、結局両者は両者があって成り立つ戦略だったと考えられましょう。
1520年からの29年間をポルトガルのゴールデンエイジとし、1640年にオランダにマラッカが占領されるとポルトガルは香辛料貿易で衰退を辿って行きました。
この衰退を止めるがごとく派遣されたのが日本人にもおなじみのイエズス会フランシスコザビエルで、その目的はアジア在中の軍人や現地人への布教にあったとされ、彼の活動自体は聖なる行動以外の何物でもありませんでした。
しかしながら、ザビエル自身もアジアでの布教活動が次第に香辛料のための布教活動へと移り変わっていったことを十分わかっていたのではないでしょうか。
十字軍の中で特異な存在として知られるテンプル騎士団は、洗練された戦闘のエリート集団でした。
一説によるとテンプル騎士団はイスラエルの聖地で聖杯など聖遺物を守るために身を隠しながら西へ西へ逃避し、ごく限られた人数の団員が現在のポルトガルの地に行き着いたと言います。
通常ポルトガルという地名はport gale(温暖な港)から来ていると言われますが、port of grail(聖杯がたどり着く港)というフレーズから来ているという一説もあるほどです。
ポルトガル最大の港町リスボン
さてテンプル騎士団は実に様々な顔を持っていましたが、金融機関としての役割を伝えない訳にはいかないでしょう。
イスラエル勢と戦った戦利品を換金したり、宗教活動で得た寄付金など莫大な財産を動かし、さらに現在の当座預金口座のシステムを発案、巡礼者が旅先でお金を下ろせるように城や教会に金融機関としての機能を持たせてしまいます。
※
一時リスボンが世界の金融拠点となったのは、彼らテンプル騎士団の功績の賜物でもあったのです。
違った見方をすれば、テンプル騎士団はイスラエル圏の現地人にそうした便利なシステムを活用させることで徐々にキリスト教を浸透させ、改宗させていくことを狙っていたとも言えます。
布教ができるならば手段は問わなかったし、聖杯など聖遺物を守り切って逃げ切り、異国の地の洞窟で逃避のための地下道を建設したと伝えられるほど本当に彼らはしたたかなものでした。
※
キリストが使用したと特定された聖杯 スペインサン・イシドロ教会展示/出典:AFP CESAR MANSO
布教が先か、香辛料獲得によるお金が先か?2つは表裏をなすものでどちらを欠いても成り立ちません。
確かに言えるのはテンプル騎士団はそれをやってのけるほど知略・身体能力・したたかさ・敬虔さを兼ね備えたエリート集団だったということです。
歴史上では結果的に十字軍は衰退してしまったかのように見えますが、テンプル騎士団においては形や名前を変えて西へ逃避してポルトガルに行き、バスコダガマやマゼランを海外へ向かわせたと言われています(※マゼランは戦士で、テンプル騎士団の一員とも言われる)。
彼らの資金源獲得に重要な役割を担ったのが、大航海時代の英雄たちが追い求めた香辛料だったのです。
クリストファーコロンブス
古代ギリシア時代から世界は丸いと考えられ、東西どちらに進んでもアジアに到達できるだろうと考えられるのは珍しい説ではありませんでした。
イタリアのクリストファーコロンブスは地球球体説をイメージしながら、「ポルトガルがアフリカ喜望峰‐インドのゴア‐モルッカという東回りルートでアジアに到着したとすれば、西回りでアジアに到着することもできるはずだ」と考えました。
コロンブスの計画は当時のスペイン王室の後押しがあって実現されるに至り、西に進んでアジアに行こうとした途上思いがけなくアメリカ大陸を発見、1492年現在のバハマに到着、1493年マリーガーラントでクローブを発見します。
コロンブスは死ぬまでアメリカ大陸をアジアの一部だと思い込んでいたために勘違いの一面が注目されてしまうものの、新大陸発見はメキシコのポトシ銀山の獲得と支配という経済的利益をもたらします。
と言っても当時のスペイン・カール五世にとっての関心事はもっぱらフランスのフランソワ一世との対立にあり、メキシコの支配はその軍資金という位置づけでしかありませんでした。
さらにメキシコの銀による利益はプロテスタントやオスマン帝国への対抗策に消え、スペインはほどなく国力が低下していきます。
のちにアメリゴベスブッチが新大陸と主張し、彼の名前から新大陸はアメリカと呼ばれるようになりました。
*ジョントランブルによるアメリカ独立宣言
実はアメリカ独立宣言にサインした52人中30名あまりは、テンプル騎士団が形を変えて生き延びたとされるフリーメイソンだと言います。
香辛料の争奪戦が当時の世界のお金の動きをダイナミックに変化させたということ、そしてそれが宗教集団によって大きく動かされていることはそれほどよくは知られていないかもしれません。
※メキシコには胡椒・ナツメグ・シナモン・丁子といった香辛料は生息していませんでしたが、唐辛子が自生しており新大陸固有のスパイスとして認識されていたようです。
メキシコでは唐辛子を液体にしたチリソースがよく活用されますが、スペインの現在の食習慣にも大きな影響を与えています
フェルディナントマゼラン
ポルトガルの「アフリカ喜望峰‐インドゴア‐マラッカ諸島のモルッカを結ぶ航路」とは別に、スペインは西側に航路を取ってアジアに到達しようとしていました。
マゼランはポルトガルの軍人としてアジアに派遣されたのち、1511年アルブルケと口論になって帰国、1514年に軍人を引退してから航海に専念し、1517年に大西洋からアメリカ大陸を渡ってモルッカへ到着することを予定しました。
スペイン王室がこの計画を支援、中古船5隻と270名の船員をマゼランに与えたものの、世界一周の野望を達成するにはかなり寂しいリソースだったと考えられているようです。
マゼランは1519年9月に出向、1521年4月にようやくフィリピンのセブ島に到着、香辛料の獲得と布教のために現地で戦死、この時船は2隻・船員は190名に減っています。
一隻の船が使いものにならなくなると、かろうじて残った最後のビクトリア号一隻による一行がクローブやナツメグを船いっぱいに満載してスペインに帰国したと言います。
このたった一隻の船に詰め込んだ香辛料によってスペインに莫大な利益をもたらしたとか。
現代では、マゼランは世界周航をはじめて実現した人物として画期的な功績を称えられていますが、どちらかというと当時西回りで香辛料の国モルッカに到達したことがはるかに重要視されていたようです。
イギリス・オランダ・フランスによる勢力圏獲得
ポルトガルが制海権を握ってスペインが植民地化でアジア一帯を支配したのに続き、1579年独立したてのオランダはモルッカ諸島へ乗り出し、イギリスは1600年有名な東インド会社を設立します。
当初オランダもイギリスも経済的勢力の拡大がアジア進出の目的でしたが、次第に領土の支配へと変わっていったとか。
1700年代中ごろ香辛料貿易はオランダに独占されつつある中、フランスが秘密裏に香辛料獲得で動こうとしていました。
当時香辛料獲得で動いていたヨーロッパ勢は、結局栽培に適した土地でないと生産できないことはわかっていたので、「苗木を入手して植民地で栽培を増やす」という動きになりつつあったようです。
1700年代フランスブルボン朝ルイ13世の領地となったマダガスカル島の隣に位置するレユニオン島は当時はブルボン島と命名されています。この時バニラの名前として「ブルボンバニラ」などが生まれました。
ナツメグやクローブなどモルッカ諸島にしか生息していない香辛料は、やがて盗木によって栽培地が拡大し、19世紀中ごろには植民地政策が意味をなさなくなって行ったようです。
香辛料をめぐる争奪戦のリアリティ
「アジアに生息する香辛料獲得を巡ってヨーロッパ諸国の争奪戦が繰り広げられた」と言ったとしても、その一言で大航海時代の現実を忠実に再現するにはかなり不足してしまうでしょう。
ポルトガル・スペインなどヨーロッパ諸国はアフリカやインド沿岸、そして東南アジアにいくつもの拠点を置きました。
拠点での活動の一つは抗戦です。
例えば海岸沿いに二重の城壁を構え、間に存在する深い空堀で敵を迎え撃って殺戮したと言います。
赤道直下のアフリカでこの深い空堀に一度誘いこまれてしまったら、灼熱の太陽で体の水分は奪われ、時に熱帯の豪雨で水地獄と化す・・・こんな状態に嵌ったらいったいどんな余命があると言えるでしょうか?
敵の返り血を血で洗い流すような死闘、これが香辛料をめぐる争奪戦のリアリティです。
しかも要塞や城壁の建設も現地人の労働で建造されたわけですから、「現地人の魂を救うための布教」などと言ったとしても、魂の救済は飽くまで改宗したならば、の話です。
大航海時代の歴史を主要年表にしてみた・そのダイジェスト
大航海時代の始まりと終わりは、1415年ポルトガルのセウタ攻略から1648年ロシアのデジニョフ岬到達までとされています。
ほか大航海時代の主要な歴史をダイジェストで年表にしてみると以下の通りになります。
- 1488年 バルトロメーディアス 喜望峰発見
- 1492年 コロンブス アメリカ大陸発見
- 1498年 バスコダガマ インドのカリカット到着
- 1501年 アメリゴベスブッチ 南米ブラジルとアルゼンチンを発見
- 1510年 ポルトガルのアルブルケ インドのゴアを占領
- 1511年 アルブルケ マラッカ占領、同年モルッカテルティーナ島に至り同国王と親交を深めて現地の足がかりを築く
- 1517年 マゼラン 南米を迂回して太平洋に達する
- 1521年 マゼラン フィリピンセブ島で戦死
- 1522年 マゼランの船隊がモルッカのチードル島に至り、インド洋から喜望峰へたどり着いて本国に帰国、世界一周が達成される
【補足】だから金の価格よりも高額になる・クローブとナツメグの特異性
*モルッカ島
モルッカ一帯は別名スパイスアイランドと呼ばれていました。当時「この地域だけ」にクローブとナツメグが生息しており、この事実が2つの香辛料の価値を希少にしていきます。
クローブ・丁子
ジャワ・マレー人によってクローブとナツメグが輸送され、そこからインド・イスラム圏の商人に手渡され、さらに彼らによってエジプトにわたり、そこからベネチアに輸送される、というこの何重もの転送経路がさらに2つの香辛料の価格を金以上の破格にしていたのです。
インドの胡椒やセイロンのシナモンは大金を出せば何とか手に入る、けれどモルッカのクローブとナツメグはモルッカから送られてこないと手に入らない。
大金を出して胡椒とシナモンだけで済ませばいい、というようにはならないところに、クローブとナツメグの存在が際立ってしまうとでも言いましょうか。
ナツメグ
ここでクローブとナツメグの持つ力を簡単に挙げてみようと思います。
- クローブ:健胃、食欲増進、抗菌、局所麻酔、媚薬
- ナツメグ:健胃、食欲増進、強壮、腐敗抑制、媚薬
※林真一郎メディカルハーブ辞典 、 山田憲太郎 香談‐東と西‐
クローブの抗菌効果はきわめて強力で、冷蔵庫のない当時の保存剤としてきわめて重要でした。
端的に保存するだけなら塩漬けでも事足りると言えばそうですが、香辛料については当時味を一層引き立たせるものとして既に高い評価を持ってしまったと考えられるでしょう。
ナツメグは防腐剤としての力はクローブに負けてしまうものの、カカオやバニラが登場する以前の時代で大変な人気でした。
カカオやバニラがなかったら私たちの食は既に成り立たなくなってしまうのと同様に、同時のヨーロッパ人にとってほろ苦さも甘味も感じさせるナツメグという存在が「無くてはやりきれない」という存在にさせてしまったのです。
このほか、クローブもナツメグも食欲を促したり媚薬としての側面もあったりと、人が生きていくうえで重要な役割を担っていたと考えられるのは言わずもがななのかもしれません。
胡椒やシナモンだけでは事足りない、ないとダメだと思わせてしまうナツメグとクローブの底知れない特異性があったわけです。
大航海時代、クローブとナツメグを手に入れるためにモルッカ諸島を巡ってポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスが争奪戦を繰り広げました。
それだけヨーロッパ人にとって香辛料の魅力が抗えるものものではなかったこと、かたや人間の嗜好性の貪欲さを物語っていると言えます。
大航海時代まとめ・人間の嗜好や欲望が地球球体説を証明してしまった
大航海時代は中世から近代へ移り変わっていった世界的な動きでした。
「もし大航海時代がなかったとしたら」、現代はまた違った社会になっていたかもしれず、それだけ現代に与えている影響は多大です。
「人間の嗜好や欲望がついに地球が丸いことを証明してしまった」と言ったとしも、おそらく決して言い過ぎではないのではないでしょうか。
香辛料を追い求める欲望と、それを獲得するために精神的従属としての布教を同時に断行していった当時のヨーロッパ人・スパイスハンターは本当に逞しく、人間臭さが垣間見えて実に面白いものです。
私が日頃調香師として香りを作成していると、スパイスのエッセンシャルオイルはその作業において欠くことができないと感じます。
香辛料系のアロマオイルは決して香りの主役になるわけでもないし、香りのつくりにおいては0.0001%以下程度割合でブレンドするに過ぎないないにもかかわらずです。
しかし、ないと香りに締まりがなく、香りの格が失われてしまうほどの存在感であり、それがなければ香りの印象がまるで違ったものになってしまうし、あればがらりと香りの印象を変えるほどのインパクトがある、それがスパイス系のエッセンシャルオイルの不思議な力です。
それは料理に絶妙な風味をもたらす香辛料としての役割と全く同じなのだろうと思います。香辛料の魅力底なし、です。
執筆:THE GRACES 調香師 雨宮悠天
世界史で大学受験した経験から中でも上のような中世ヨーロッパの時代についての興味が非常に高く、無宗教ながら当時の宗教的背景を探りながら歴史に触れることが好きです。
【画像の出典】
*:WIKIPEDIA
※:中世ヨーロッパの謎 伝説の騎士と聖杯より
ほか出典表記なき画像はフリー画像サイトより
キリストが使用したと考えられる聖杯は現在200個あると考えられてる
【参考】
山田憲太郎:香料の道、香談‐東と西‐