天下人織田信長の蘭奢待・信長の巧みな下賜術
ここでは織田信長と蘭奢待とのかかわりとして特に彼の蘭奢待切り取りの意図や経緯、蘭奢待を切り取った人、蘭奢待はどんな香りか? 何の木から取れてどう生成されるのか?といったトピックをお伝えしています。
特に家臣たちに与える褒美として蘭奢待を巧みに活用した方法にご注目です。
織田信長と蘭奢待
蘭奢待は、「蘭の中に東」「奢の中に大」「待の中に寺」という文字を隠す雅名で、呼び名は足利義満の時代に生まれたと言われています。
これらの漢字が当てられた理由として「勇ましく強く奢った侍が欲しがるものだったから」だそうで、もっとも有名な侍が織田信長です
織田信長による蘭奢待切り取りの意図とその経緯
織田信長蘭奢待切り取りの意図は端的な「欲しいという欲求」ではないか?
この織田信長の蘭奢待切り取りの意図として、様々な説が考えられています。
織田信長の蘭奢待切り取りの意図の一つめの説は足利家にマウントを取るための言動とする説です。
下の画像の通り織田信長が切り取った部位は足利義政が切り取った部位の隣であり、同じくらいの大きさだったと言います。
*
この言動は「もう足利氏の時代は終わって天下は自分の手のひらの中」ということを知らしめるための意図だったのではないかと考えられました。
織田信長の蘭奢待切り取りの意図の二つ目の説は正親町天皇へ自らの権力を誇示・威圧するための言動とする説です。
経済的など様々な点で弱体化していた正親町天皇へ、「私は既にあなたを超える存在」と伝える意味だったのではないかと考えられました。
織田信長はこの頃から正親町に譲位を提案したり軍事力の見せつけたりしたことからこの説が考えられており、さらに自身を天皇を超えた神格化した存在として見るようになっていたとも言われています。
しかし足利家マウント説も正親町天皇威圧説も現状ではいずれの説も推測に過ぎず、作今では以下の3点から2説が否定されつつあるようです。※渡邊大門氏による
- 織田信長は正倉院ではなくて多聞山城で蘭奢待を閲覧した(正倉院での閲覧は反感を買いかねない)
- 東大寺僧侶3人の立会いのもと仏師に蘭奢待を切り取らせている(自ら手を下さずに聖職者に委ねた)
- 織田信長は閲覧と切り取りの許可を申し出て得ている
この3つのポイントについて今度は「蘭奢待切り取りの経緯」といった視点からもう少し詳しくお伝えしますので参考にされてください。
織田信長による蘭奢待切り取りの経緯には”よく言われる事件性”はない
蘭奢待を見たいという要望を東大寺に伝えたところ、足利家以外に蘭奢待の開封の事例がないながらも、参内屋根の補修など経済的支援の実績があったために「天皇の許可があれば見てもいい。さらに開封についてはルールを守ってもらう。」という条件を提示されています。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)が織田信長にほどなく許可を与えて蘭奢待を切り取ったと言います(1574年)。
足利義政以来、何人もの足利将軍が蘭奢待の閲覧を希望しても実現しなかったというので、この点を織田信長は大変誇らしく感じていたとか。
「信長公記」によると、織田信長は180pの長い箱に蘭奢待を入れて多門城に持ち帰り、応接室に設置して、東大寺の僧侶3人、仏師1人の立会いの下、家来たちに蘭奢待を見せたと言います。
そして仏師に5.5センチほどの2片を切り取らせ、一枚は自分用に、そしてもう一枚は正親町天皇に渡したそうです。※年代記抄節によると切り取りは3片とされている
正親町天皇はこの蘭奢待の一部とともに「(織田信長から)かなり強引な閲覧・開封の申し出があった」という趣旨の文を九条稙通に贈っているとか。
織田信長によって蘭奢待が切り取られた出来事は事件性のあるスキャンダラスな面が注目されがちですが、正当な手続きや相当な容易と手順を踏まえて進められているために「事件性は薄い」と考えられるのではないでしょうか。
織田信長のように強烈な個性を持った人物は、よく歴史上でも話に尾ひれが付くものですが、正親町天皇が信長に閲覧と切り取りを認めている点については天下人として認めている証拠でもあるのは確かです。
織田信長が天下人になれる香りだと錯覚したであろう蘭奢待はどんな香り・匂い?
ごくわずか出回っている沈香のエッセンシャルオイル(弊社所有)
蘭奢待の正体である沈香の香りはよく精澄優雅と表現されます。
沈香は決して人間がつくったものではないが、まったくの自然の産物でもなく明らかに自然と決別している。しかし人間臭い何ものかを訴えかける。人間離れしているようで人間の本質に通じている気がする。
さらに中国人は「沈香を焚けば香気は寂然として鼻の中に入る それは木ではなく空ではなく煙でもない去って着地点もない」「焚けば紅袖(美人)の気配を感じ、ひたすら彼女を思い慕うような心燃やされるような気にさせられる 混沌の気頭をくらくらさせて動物的に本能のままにささられる」と言ったそうです。
織田信長をはじめとした天下人が蘭奢待を切望した理由の一つに、そのような魔性のような雰囲気に圧倒されてしまったところはあるでしょう。
威風堂々・悠然としたイメージのその香りを嗅いで、天下人になった錯覚を起こしてもおかしくないほどの独特な雰囲気の香りなのです。
筆者自身が感じる沈香は「一つの作品としてさまざまな香りが織り交ぜられているような印象」です。山田憲太郎氏が言及した「自然の産物とは思えないところ」はそういった特徴にあると思われました。
アロマをオートタイマーアロマディフューザーで楽しみませんか?
織田信長以外に蘭奢待を切り取った人・手に入れた人
蘭奢待には38ヵ所も切り取りの跡があると報告されていますが、誰がいつ切り取ったのかが明確でない場合がほとんどです。
以下は事実と言われている蘭奢待切り取りの報告です。
足利義満は沈香を2片ほど切り取ったと言われており、この蘭奢待を切り取った出来事に関して「最高の徳を得ているとはこのようなことだ(満済准后日記)」と語ったと言われています。
足利義政は5.5p角の蘭奢待を2片切り取り、1つは後土御門天皇に渡し、もう一つを自分用にしたと記されています。(蔭凉軒日録)
*
11pほどが切り取られました。当時蘭奢待を切り取ったと言われている内務省博物館局長町田久成氏は「日の中に蘭奢待の粉末を入れたらかすかな香りだが誠に香りが清らかだった」と述べています。
織田信長は香りの良さを知っている素養高き文化人として千利休に蘭奢待を分け与えました。千利休は名香のコレクターでもあったからです。
驚くべき蘭奢待の値段・信長が切望する至宝にふさわしい
蘭奢待に価格がつけられることはないでしょう。一方蘭奢待と同じ香木である沈香の価格は下記の通り、「8.8KGで約7700万円」で、ちょっとした住宅を購入するくらいの価値となっています。
出典:kakaku.com
正直木片じゃないの?とかそういうレベルの話ではありません!
驚くべき沈香の現在の価値が織田信長の働きによるところもあるとすれば、ちょっと感慨深いですね。
織田信長によりどのようにして蘭奢待は価値がアップデートされていったのか?を推測
*沈香木が使われた木箱・正倉院収納
蘭奢待が正倉院に納められた当初は、織田信長が羨望の眼差しを向けたほどの価値はなかったとされています。
武功を上げた者一人一人に土地や城を与えていては切りがなかったので、蘭奢待を分け与えていたと言うのです。
織田信長のような武将が武功を上げた家来に切り分け与えたという点から、蘭奢待がいつの日か武将の間でステータスシンボルとなり、価値がアップデートされていったのでしょう。
香りがする木片が「石高を欲しがる武将への褒美の代わりになる」というのはどうも容易に信じがたいところでもありますので、もう少し掘り下げてみようと思います。
織田信長は「誰かが土地を占有すれば誰かが奪われる」という戦国時代特有のルールの中で生き、島国という有限な場所において所有の限界に気づきます。
有限な土地占有の「代替案の一つ」として考えられるのが茶道具です。
織田信長自身茶への入れ込みようは相当で、うわさに流れる著名な茶器などは力づくで手に入れようとしました。松永久秀が所有していた平蜘蛛の茶釜を何度も所望していたことは有名なエピソードです。
久秀は自害した際に平蜘蛛茶釜を割り砕いたと言われる。それだけ信長に渡したくなかったのか?
天下人織田信長が切望して手に入れた茶器となれば、武将たちも石高の代わりになりうるものとして見ようとしますので、信長自身もこれを巧みに利用したのではないでしょうか。
まったく織田信長のやり方には脱帽します。
こうして考えるみると、「石高や茶器の代わりとして・代替案のもう一つが蘭奢待だった」と考えられるのです。
天下人になった織田信長は「自分こそが蘭奢待の所有者たるもの」と強く切望するようになり、さらに正親町天皇に蘭奢待を分けることによって天下人たる自分の存在を知らしめようとするのです。
出典:大河ドラマ麒麟がくる 蘭奢待と信長
現存する人物で織田信長と正親町天皇しか所有していない蘭奢待となれば、武将たちも香りがする木片の価値がどれだけかが分かるでしょう。
このようにして蘭奢待を石高の代わりになりうるものとして家臣たちに分け与え(下賜)ているうちに、いつしか蘭奢待の価値がアップデートされていった、このように推測できるのです。
天下人織田信長を魅了した蘭奢待・沈香について
織田信長のような猛々しい天下人だけでなく、足利義満、足利義政、明治天皇といったそうそうたるメンバーに切望された蘭奢待、いったい何が彼らを引き付けたのかとても不思議です。
ここからは蘭奢待とその正体である沈香についてお伝えしようと思います。
蘭奢待は今どこに?:東大寺正倉院天下一の香木が保存される理由
*
天下一の香木と呼ばれる蘭奢待は聖武天皇のお気に入りの一品の一つで、天皇の崩御のあと光明皇后によって東大寺に収納されたのではないかと言われています。
また、蘭奢待は東大寺の羂索院の倉に収蔵されたのち倉の老朽化から1116年正倉院へ移されたようです。
正倉院御物図録では、蘭奢待について「一見見た目は楠または欅の材質を朽ちたような感じに見える脆質なものに見えるが、色が黒褐色切断面は灰色をして質も緻密で、材の深部は朽ちているが中は空洞」というように記されています。
蘭奢待の正体は沈香
*これが本物の蘭奢待・正倉院収納
蘭奢待の正体は沈香・沈水香木で、樹木の幹や枝にきわめてまれに樹脂が分泌してきて水に沈む比重になることからそのように呼ばれるようになったとか。
長さは156.0p、最大径は42.5p、重量は11.6s、内部は空洞で、調査によると樹脂の分泌が少ない部分が削り取られた跡だとされています。
沈香は何の木からできてどう生成される?
沈水香木は楠に似たアキラリア属・ゴノスチラ属などの樹木の一部で、中〜南ベトナム(最上)・インドネシア(中)などの山間僻地の密林に生育しています。
2つの地方のように特定の温度湿度という微妙なバランスや条件がそろった環境でないと沈香は採取できないと言われます。
雨風・巨石などによって幹が損傷を受け、さらに樹齢100年後老化して倒れ50年前後経過するとごくまれに(※割合的には100本に1本程度)傷の部分にバクテリアが繁殖して樹脂ができるというのです。
どのように沈香は採取されるか
中国三国時代の南洲異物志では以下のように説明されています。
香木を採取しようとする原住民は山中で目星の樹木を切り倒して数年放置する。
樹木内部に樹脂が沈着している部分があるかを直感と経験で見分け、沈香樹であると目星が付けられた幹に穴をあけて塩を詰め込み樹脂の生成を促す。
沈香樹は人がいない密林の中に生息しており経験と専門的な知識が必要で、密林の奥地に入っていったとしても採取できる確率は高くありません。
密林の中で戻ってこれるわけでもないので、現在インドネシアでは資本力を持った人物がヘリを飛ばして人員を密林に下ろし、ピックアップして戻ってくるといった取り組みも行われているようです。
いずれにしても現地の特定の部族だけが持っている経験と知識に頼っており、この採取方法は厳格な秘密として守られているようです。
沈香にも2種ある
*全桟香
正倉院に保存されているのは織田信長らが珍重した蘭奢待だけでなく他にも収納されており、それには黄熟香と全桟香があります。
本来ならば幹部分に樹脂が100%分泌していれば沈香、50%程度だと桟香と呼ばれるそうです。
※樹木全体が樹脂が100%分泌している沈香となるわけではなく、巨木のところどころが樹脂が沈着している部位があるのが一般的
そのグレードを決定づける三大要素は香りの高さ・重さ・色によると言われており、さらにこのグレードが価格に反映されます。
- 香りの高さ:一級品は加熱しなくてもかすかに香りを発し、燃やせば人を酔わせるほどの魅力的な香りを放つ
- 重さ:樹脂が多ければグレードが上がると言われ、少なければ水に浮いてしまうためグレードが劣り、必然的に沈香と呼べない
- 色:樹脂が多ければ黒色に近くなり、さらに艶も発し、褐色であれば黒の次のグレードに位置づけられる
※本物は割けば白と黒が入り混じっており、真っ黒の場合は人の手が加えられた人工と考えられる
グレードの呼び名として最上級が伽羅とされており、それは神聖な香りで価格は極めて高額です。
実は正倉院に保存されている沈香については、「樹脂の沈着状況は十分な品とは言えない」と判断されています※朝比奈泰彦
蘭奢待は沈香としての品質を超え、織田信長などの天下人によって価値がアップデートされていったのでしょう。この点は非常に興味深いです。
沈香は本当に漂流したのか?・日本に伝来した諸説
沈香は中国からの献上品説・広法大師空海の持ち帰りの品説・東南アジアからの漂流説など諸説あります。
このうち漂流説については疑いを向ける人も多いようです。
比重は1.02〜1.06くらいと言われ、水に沈むなら東南アジアから日本列島に漂着しないだろうと考えられる場合もあります。
一方で軽い気質の部分と樹脂が深く沈んだ部分が合わせて全体的に水より比重が軽ければ漂流はするだろうと考えられ、、実際豪雨の際に淡路島に流木は漂着するようなので、漂流説は全く嘘というわけではないでしょう。
漂流説にかかわるトピックで聖徳太子の聖徳太子伝暦に記された一説をご紹介します。
推古天皇の3年、土佐の国の南の島に夜大なる光あり。
30日ヶ日を経て夏4月淡路島の南の岸に着す。島の人沈水をしらず、薪に交えてかまどに焼く。
太子(聖徳太子)使いを遣わしてその気を献ぜしむ。その香気薫ずることはなはだし。太子見て大いに喜び奏して言う。
「これ沈水となすものなり。南天竺三国の南の海の岸に生ずる。水に沈んで久しきものを沈香と呼び、久しからざるものを桟香とする」
日本書紀の推古天皇の夏4月の条にも、上の記述とほぼ同様のことが書かれており、これが国内に伝来したはじめの香として認識されており、沈香の漂流説はあながち嘘ではないと考えられているようです。
日本書紀での記述
沈香淡路島に漂着。島の人は沈水ということをしらずに薪にして火をつけたところ、その煙の良さに手驚いた
日本で注目される前の沈香
11世紀前後の中国では合香が盛んになりました。(合香は3世紀ごろに既に行われていた)
中国の漢方でも、1種の植物を漢方として処方するよりも、数種の植物を処方して漢方薬とするほうが圧倒的に多くなっています。
合香も、数種の植物の香りがブレンドされたほうがより洗練されて角が取れた佳香になりやすいという理由から始まっています。
中国は沈香を香料としてだけでなく漢方など薬物として使っていたので、ベトナムなど広範囲の産地から取り寄せる必要がありました。
12〜13世紀ころ当時沈香が盛んに採取されたのはこうした中国の莫大な需要にこたえるためだったと言われています。
※ヨーロッパで中国ほど需要があったかと言われたらそうでもなかったそうで、理由は端的にその香りがヨーロッパ人の好みに合わなかっただけだったとか。
日本の薫物は中国の合香からと伝えられており、この中国の合香の中心として使われていたのが沈香だったため、日本の薫物でもそれが中心となったそうです。
出典
*:正倉院HPより
参照
山田憲太郎
- 香料 日本のにおい
- 香談 東と西
- 香料の道
中村祥二 調香師の手帖